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今日のこよみ ・2019年(平成31年/猪)
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- 徳川秀忠【とくがわひでただ】
- 7 大御所・徳川秀忠の苦悶…松平忠長を死に追いやった真犯人は誰だ?
駿河大納言・松平忠長は、徳川家光の2つ下の同母弟である。2代将軍・秀忠夫妻に大変かわいがられ、一時は家光を差し置いて世嗣になりそうなほどであった。
1616年、忠長は、兄・家光と同じ日に元服し、甲斐(山梨県)一国を与えられた。1624年には、さらに駿河と遠江(共に静岡県)を加増され、合わせて55万石を有する大大名となった。とくに駿河の地は家康が晩年を過ごしたところで、そこに配されたということからも、当時の忠長の立場がわかるだろう。
だが、1631年、突如として忠長は、すべての領地を没収され、甲斐国へ蟄居させられたのである。家臣を意味もなく手討ちにしたという不行跡が、その理由だとされた。
1632年正月、大御所(前将軍)秀忠が病死する。それから3か月後、忠長は謀反の疑いにより高崎(群馬県)へ移され、幽閉の身となった。そして1633年12月6日、将来を悲観した忠長は、27歳の若さで自刃したのであった。
一般的に、忠長を死に追いやった張本人は、兄の将軍・家光だと言われている。忠長は、幼少の頃から家光のライバルであり、成人後も、常に家光を脅かす存在だったからだ。
しかし、厳密に言えば、忠長を追い込んだのは家光ではない。それは、何と父親の秀忠だった。
家光が3代将軍になったのは1623年のことだが、幕府の実権はそれ以降も、大御所となった秀忠が掌握していた。その状態は、1632年の秀忠の死まで続いている。そして、忠長の失脚は1631年のことである。だとすれば、忠長の蟄居は、秀忠自身の意志から出たことになる。
確かに、不思議な話ではある。どうしてあれほど目をかけてきた息子・忠長を、秀忠は自ら罰したのだろうか?
おそらく秀忠は、我が子を犠牲にして徳川家の安泰を守ろうとしたのだ、私はそう思う。
家光は、元来病弱でいつ死ぬかわからないうえ、男色趣味が昂じて女性に興味を持たず、まだ子供もいなかった。もし家光が失せたら、次期将軍は間違いなく忠長に回ってくる。それゆえ、秀忠は忠長に、御三家に匹敵する領土と地位を与えた。
諸大名もそれをよくわきまえているから、忠長に取り入ろうとした。とくに西国大名たちは、江戸参府の往来のさいには必ず駿河に立ち寄り、忠長に伺侯した。忠長は、それらの大名に褒美の品物を下賜し、ねんごろにもてなした。まるで将軍のようであった。
1631年頃から、秀忠は体調を崩し始めた。自分の体である。もう寿命がいくばくもないことは、自身が一番よくわかる。
このときに臨んで秀忠は、はたと気がついた。己が存命のうちは良い。だがもし自分が死んだら、おそらくひと悶着起こるだろう。実際、家光を廃して忠長を将軍にしようとする動きもあると聞く。そんなことになれば、日本は再び戦乱の渦に巻き込まれ、徳川家の存続自体が危うくなる。
それを防ぐには、この、もっとも将軍に近い男をどうにかしなければならぬ。方法は一つ、政治的生命を奪ってしまうことだ。将軍の後釜なら御三家がある。
きっと秀忠はそう考え、忠長を処罰したのだ。
もちろん、忠長は秀忠の実子である以上、命まで取ろうとは夢にも思っていなかったはずである。だが、結果的に忠長の自殺が、このときの秀忠の判断に起因するのは間違いない。しかし、その後の将軍家の繁栄を見れば、それが英断であったこともまた、明白であろう。
【出典】 |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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この言葉が収録されている辞典 |
日本史の雑学事典
- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137