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今日のこよみ ・2019年(平成31年/猪)
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- 田沼意次①【たぬまおきつぐ】
- 9 田沼意次は本当に将軍を暗殺したのか?…徳川家お家騒動を巡る策謀
1786年8月25日、10代将軍・徳川家治は危篤に陥ったさい、与えられた薬は毒薬だと叫び、調合した医師が田沼意次の遣わした者だと知ると、怒りをあらわにして亡くなったという。『天明巷説』によれば、家治の遺体は、翌日になって震え出し、大量の血を吐いたとあり、尋常な死ではなかったらしい。
しかし、意次は暗殺犯ではない。家治崩御から2日後、意次は老中を罷免された。その失脚が将軍の死にあったことは明白である。意次は家治の寵を得てのし上がった男ゆえ、その家治が死ねば、自分の地位が危うくなるのは自明のこと。それを承知で毒殺する馬鹿がどこにあろう。
実は一人、非常に怪しい男がいる。11代将軍・家斉の実父・一橋治済である。
8代将軍・吉宗が創設した一橋家は、田安・清水家と共に御三卿と呼ばれ、将軍直系が絶えた場合、それを継ぐ家柄とされた。意次の弟・意誠は一橋家の家老で、その関係から治済と意次は親密だった。家治には4子があったが、うち3人が早世し、嫡男・家基のみが健在だった。その家基が、新井宿(東京都大田区山王)での鷹狩りの帰路、にわかに危篤となり、急死する。1779年のことで、まだ18歳だった。このため、家治の後継者は、一橋治済の嫡男・豊千代に決まった。田沼意次の推薦によるものだった。この経緯を見ると、意次と治済に都合良く事が運び過ぎており、家基の死は、2人の共謀による毒殺の可能性が高い。
意次にすれば、有能な家基が将軍になるより、親密な治済の子が将軍に就いたほうが、将来は安泰だ。治済も、我が子が将軍になれば、こんな嬉しいことはない。つまり、利害関係が一致するのだ。それに、この2人には、前科があった。
これより3年前のこと。家基が没した場合の有力な将軍候補者は、豊千代のほかにもう一人いた。田安治察の末弟・定信(のちの松平定信)である。ところが、田安家が拒んでいるのに、意次は定信を無理やり奥州白河藩の養子に出してしまったのだ。これにより、定信の将軍継承権は消滅した。
定信が去り、家基が死んだあと、もはや意次と治済には怖いものがないように思えた。ところが、思いがけない事件が起こる。1784年3月24日、殿中で意次の子・若年寄田沼意知が、旗本の佐野政言に殺害されたのだ。出世させると賄賂を取っていたのに、約束を果たさなかったことに腹を立たのが原因とされているが、田沼政治に不満を持っていた庶民は、佐野を「世直し大明神」とあがめる一方、意知の葬儀には石が投げられたという。このとき意次はすでに66歳、しかも田沼政治の評判が悪く、後継者が消えたとあっては、田沼政権の終焉は火を見るよりも明らかだった。
ゆえに治済は、意次をこの時点で見限ったように思われる。息子が将軍になることはすでに決まっている。ならば、将来のない田沼と組むのは不利、そうこの老獪な男は考えたのだろう。
そして担ぎ出したのが、松平定信だった。白河藩主としての定信は、名君の誉れが高かったが、自分を蹴落とした意次を憎んでおり、城中で刺し違えようとしたほどであった。が、なぜかこの頃から、急に賄賂を持って意次の屋敷に通い始めているのである。意次は定信の態度にほだされたのか、本人の希望を入れ、有力譜代大名の詰める溜間詰とした。定信は、ここで反田沼派を密かに結成、意次の追い落としを図ったという。
いまとなっては、家治の死が毒殺か、自然死だったかはわからないが、これを意次の仕業に見せかけ、その失脚を誘ったのが、治済や定信を含む反田沼派の仕業であったことは確実だろう。
【出典】 |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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日本史の雑学事典
- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137