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今日のこよみ ・2019年(平成31年/猪)
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- 後藤又兵衛【ごとうまたべえ】
- 6 嫌がらせに嫌がらせで対抗した後藤又兵衛…黒田長政の再就職妨害に腹を立てての行動?
後藤又兵衛基次は、朝鮮出兵や関ヶ原の合戦で活躍したことで知られる、歌舞伎や浄瑠璃でも有名な武将である。
その又兵衛が、一時は乞食にまで転落したらしい。旧主である筑前国(福岡県)福岡城主・黒田長政が彼を恨んで、ことごとく仕官の邪魔をしたからだ。
主君との関係がいつからギクシャクし始めたのかはよくわからないが、1606年、又兵衛は大隈城主の地位と1万6千石の禄を惜しげもなく捨て去って、長政のもとを出奔した。
長政がまだ幼少の頃、又兵衛と相撲をして容赦なく叩きつけられたとか、朝鮮出兵のさい、敵将と組み合う長政を又兵衛が助けなかったとか、理由も諸説あって定かではないが、実際のところ、積もりに積もった、よほどの事情があったのだろう。
又兵衛出奔を知った隣国の豊前国(福岡県)小倉城主・細川忠興は、すぐさま又兵衛を自領に招いて、高禄で召し抱えようとした。この男がずば抜けた歴戦の武将で、天下にその名が轟いていたからである。
これに対して長政は怒り、忠興の行為を強く非難した。そのため、両家の関係は非常に険悪となり、へたをすれば武力衝突にまで発展しかねない雰囲気になった。
そこで、とうとう幕府が仲裁に乗り出し、又兵衛が細川家を去ることで決着がついた。
その後、又兵衛は、安芸国広島城の福島正則、播磨国姫路城の池田輝政、伊勢国津城の藤堂高虎といった大大名たちに招かれ、その重臣に取り立てられようとしたが、そのたびに長政は、彼の再就職を全力で阻止していった。異常としか言いようのない憎悪である。
かくして、どこにも仕官できずに京都へと流れ着いた又兵衛は、そこで軍学を教えながら暮らしの糧を得ていた。それすらままならないときは、乞食にまで身を落として食いつないでいたと伝えられる。
このように落魄した日々を送っていた又兵衛だが、徳川家と豊臣家の決裂が決定的になった1614年、豊臣秀頼に招かれ、大坂城へ入ることになる。長政の妨害も、さすがに秀頼には効かなかったようだ。
すでに60近い老人だったにもかかわらず、あえて徳川方と敵対する気になったのは、きっと、旧主・長政から受けた、たび重なる仕打ちへの恨みをきちんと晴らさねば、死んでも死にきれないと思ったからだろう。嫌がらせには、嫌がらせで対抗したのだ。
又兵衛は、大坂冬の陣と、その翌年の夏の陣に豊臣方武将として参加して、徳川方の黒田長政を窮地に陥れた。
冬の陣では先陣を切って敵に向かい、味方の士気を高め、城じゅうの将からの信頼を勝ち得ている。
その後、徳川方から使者が来て、播磨50万石と引き換えに寝返りを要請されるが、これをきっぱりと固辞している。
しかし、この話がもとで、豊臣方の重臣たちから謀反の疑いを持たれてしまった又兵衛は、そのうわさを振り切るかのように、夏の陣でもすさまじい奮闘を続けた。
最後は道明寺の戦い(大阪府柏原市)で傷つき、部下の介錯で鮮やかに果てたという。
完全燃焼し尽した名将は、こうして散ったのである。
【出典】 |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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この言葉が収録されている辞典 |
日本史の雑学事典
- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137