-
今日のこよみ ・2019年(平成31年/猪)
・12月(師走/December)
・19日
・木(Thursday)
・二十四節気
┣「大雪」から12日
┗「冬至」まで3日
・先負
・十支:庚(かのえ)
・十二支:寅(とら)
月名(旧歴日):下弦の月/下つ弓張(しもつゆみはり)
文永の役【ぶんえいのえき】
- 3 文永の役では神風は吹かなかった?…蒙古軍が撤退した本当の理由を探る
1206年、チンギス・ハンによって創設されたモンゴル帝国は、すさまじいほどの勢いで膨張し、その孫・フビライの代になると都を北京へ移した。そして1271年に国号を元と改め、東アジアへと侵出していった。
このため、宋は圧迫されて南遷し、朝鮮半島の高麗は元に無理やり服属させられた。さらにフビライは日本へも矛先を向け、鎌倉幕府に朝貢を要求するようになった。執権・北条時宗はそれを断固拒絶したため、1274年、ついにフビライは日本を討つべく、3万の大軍を九州・博多へ送ったのである。こうして文永の役は勃発した。
幕府軍は、モンゴル人の集団戦法や見慣れぬ武器に翻弄され、ほとんど為す術がなかったと伝えられる。もし、そのまま夜になっても戦い続けたなら、おそらく幕府軍は敗北していただろう。だが、運良くと言うべきか、モンゴル人たちは夜に入ると、全員が船へ戻っていった。敵地ゆえに警戒したのだ。
その夜、暴風雨が吹き荒れた。
夜が明けると、昨夜の大風によって、元軍の船はほとんど沈没してしまっていた。まさに救いの風であり、以後、日本人は、「国が危機に見舞われたとき、必ず神風が吹く」という迷信を信じるようになった。第2次世界大戦の悲劇的な神風特攻隊の名称も、もちろんここが発信源である。
さて、文永の役で吹いた突然の風の正体だが、これまでの歴史家は、これが台風であることをまったく疑わなかった。だが、どうやら台風ではないようなのである。なおかつ、果たして本当に風が吹いたかどうかも怪しいものなのだ。
疑問を呈したのは、気象学者の荒川秀俊氏である。彼の説は非常に興味深いので、以下にそれを要約して紹介する。
「モンゴル人が来襲したのは、旧暦の10月20日。この日付を太陽暦に直すと、11月26日に当たる。台風の季節とはほど遠い。加えて、当時の史料からは台風が発生した記録が見出せない。ということは、台風は来なかったのである」
そう断定し、さらに荒川氏は、元軍の撤退は予定の行動であったと推定する。
まさにコペルニクス的発想の転換である。
確かに、次の弘安の役(1281年)は新暦に直すと8月16日で、まさに台風の季節である。その到来は不自然ではない。だが、11月後半は異常だ。後世の人々が、蒙古襲来を劇的にするため、文永の役でも神風を登場させてしまったのか、あるいは、2度の戦争がごちゃ混ぜに混同されて、神風神話が生まれた可能性も否定できない。
ただし、11月末に絶対に台風が来ないとは言い切れない。実際、1990年の11月30日には、日本列島に台風が上陸している。
それに、当時の史料がないというのは理由に乏しい。鎌倉時代という歴史的古さゆえ、散逸してしまっていて当たり前であり、逆に残っているほうが奇跡なのだ。元軍の撤退が予定の行動だとする文献も存在していない。学者のなかには、台風ではなく突風、あるいは強い季節風とする人もある。が、それごときの風で日本海を渡ってきた船が沈没するであろうか? もちろん、その程度では沈没しないと思うのが常識であろう。
しかし、この船は、元に支配された高麗の人々が建造したことがわかっている。元の支配に強い抵抗を示した彼らが造船命令に反発し、手抜き工事をした可能性も否定はできない。
また、船を近づけ過ぎて停泊していたため、互いに船体が激しくぶつかり合って破壊され、沈没してしまったのだという説もある。
【出典】![]() |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
A D |
日本史の雑学事典について | ||
|
この言葉が収録されている辞典 |
日本史の雑学事典

- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137