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松山城の攻防【まつやまじょうのこうぼう】
- 10 珍手・奇手が続出した松山城の攻防…前代未聞のモグラ作戦と日本初の軍用犬
1561年、越後の上杉謙信が関東に侵攻し、北条氏康の小田原城を攻めた。
このとき、多数の関東武士が上杉方に寝返った。岩槻城主・太田資正もその一人で、資正は機に乗じて後北条方の上田氏の居城だった松山城(埼玉県比企郡吉見町)を奪取、上杉憲勝を城主に据えた。
松山周辺は交通の要衝地である。ゆえに氏康は、これを奪回すべく出兵を決意する。
氏康がすぐには兵を進めず、翌年11月になって松山城を囲んだのにはわけがある。越後が雪で閉ざされれば、謙信の後詰めを気にせずに攻撃できるからだ。その翌月には、武田信玄も援軍として加わった。
松山城は三方を市ノ川に囲まれ、東を堀や土塁で厳重に固めた要害である。それでも北条・武田連合軍は、猛攻によって総曲輪(石垣や土塁、堀で囲まれた平らな場所)まで落としたが、地形の峻険さゆえ、主郭部へは近づけなかった。
そこで信玄は、金掘人夫を使って坑道を穿ち、主郭を崩す作戦に出た。
一説によると、信玄は城の東側にある吉見百穴を見て、このモグラ作戦を思いついたらしい。吉見百穴とは、家族墓と推定される200余の横穴墓からなる、古墳時代後期の代表的な横穴墓群である。
城兵は作業を妨害するため、さかんに鉄砲を浴びせかけたが、武田軍は竹束(楯の一種)で弾丸を防いで作業を続行、ついに二郭を掘り崩した。
しかし、城方も負けてはおらず、上から坑道へ大量の水を流し込んだ。そのため、穴が崩れて多くの人夫が生き埋めとなり、作戦は中止されてしまった。
資正は、大規模な攻撃のたびに岩槻城から駆けつけ、後方を撹乱した。彼は松山城に軍用犬を配備し、危急のさいには伝言をくくりつけ、岩槻へと放つ方法をとらせていたので、籠城している味方の危機がすぐに分かったのだ。日本における軍用犬の始まりとも言われている。
だが、次第に守城軍の士気は低下してきた。真冬に入り、謙信の来援がますます期待できなくなったからである。
諦めムードが城内に広がるなか、結局、翌年に入って講和交渉が開始され、2月4日、上杉憲勝は城を開け渡した。城兵は助命され、憲勝も厚遇された。
だが、実はこのとき、謙信はすぐ近くまで来ていたのである。危険を侵して、雪の三国峠を越えてきたのだ。謙信が松山に到着したのは、開城からわずか3日後、まさに一足違いだったという。
【出典】![]() |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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日本史の雑学事典

- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137