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- 首実検【くびじっけん】
- 9 世にもおぞましい首実検の真実…生首で決まる戦国武士の論功行賞
ある意味、日本の武士は、首狩り族だといって良いかもしれない。もちろん、首狩りという風習は世界じゅうに残っており、決して珍しいことではない。日本の武士の場合が特殊なのは、首狩りを戦争のときにしかせず、なおかつ、狩った首の数や生前の地位によって、恩賞の多寡が決まったという点である。
だから武士たちは、恩賞を得るため、必ず証拠品として首を確保しなければならなかった。戦闘中でも首を離すわけにはいかない。だから、腰に縛りつけて戦うのである。人の頭はけっこう重い。そんなものを3つも4つもぶら下げて戦えるのかと不思議に思うが、本当にそうしていたようだ。
さて、奪った首は、合戦直後、大将を前にして、次々に披露されていく。この儀式を「首実検」と言う。
単に首を大将に見せれば良いというものではない。厳粛な儀式ゆえ、首実検には、実に細かいルールがあるのである。
首の見栄えを良くするための化粧方法、首札の記載方法、首を乗せる台の寸法や木の材質など、すべてが詳細に規則で定められていた。
生首に化粧するとは何とも気持ちが悪いと思うかもしれないが、実際に戦国時代、女性や子供たちが首化粧をしていたという記録もちゃんと残っている。
また、主君に討ち取った首を披露するさいにも、いちいち面倒な作法があった。
そうした作法については、『出陣日記』と称する古書にくわしく掲載されている。
「軍陣にて我取りたる首、貴人(主君)へ御目懸様の事」
で始まる原文を、現代風に訳してみよう。
「まず、両方の手で首を持ち、切り口に指をかけ、左右の耳に親指を突っ込んで顔をまっすぐに直す。それを右の脇に抱えて前に進み、主君の間近まで来たら、首を差し出して右の方を御目にかける。ご覧に入れたら、今度は左の脇に首をかかえ直して、静かに退場する」
ちょっといまでは信じられないようなおぞましい光景が目に浮かんでくる。このような首実検が、武士の時代においては、粛々とおこなわれていたのである。
首実検は、その後の論功行賞にもかかわってくるので、武士たちは少しでも自分の活躍を認めてもらおうと必死になった。そんなわけで、取った首についての揉め事も絶えなかったという。
たとえば、1564年、後北条氏が里見氏を撃破した上総池和田城(千葉県市原市)の戦いでも、生首を巡ってひと悶着が起こっている。
この合戦で、山中左門尉と伊達与兵衛の2人が、同時に里見方の多賀右衛尉に向けて矢を放った。矢を受けて、たまりかねた多賀が落馬したところ、後北条方の片岡平次兵衛が横から飛び出してきて、倒れている多賀の首を掻き切ってしまった。 そんな状況から、首実検のさい、北条氏康の面前にて、3人の言い争いが始まった。互いに譲らず、自分が戦功第一だと主張し合ったのだ。
そのため、氏康は目付に詳細な調査を命じ、その結果、多賀を射た矢は、伊達のものと判明した。かくして、伊達が戦功第一とされたのである。
こういった首級を巡るいざこざは日常茶飯事で、なかには他人の取った首を奪って自分の手柄にしてしまう不届き者もいたという。
いかに公平に論功行賞の審判を下し、滞りなく実検を終了させるかは、大将の才覚にかかっており、数ある大将の仕事のなかでも、もっとも重要な職務の一つだった。
【出典】 |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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この言葉が収録されている辞典 |
日本史の雑学事典
- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137