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吉良上野介【きらこうずけのすけ】
- 9 吉良上野介の役職「高家肝煎」の仕事とは?…幕府の儀式典礼を司るプライド高い職業
1701年3月14日、江戸城内で勅使饗応役の浅野内匠頭長矩が、指南役の吉良上野介義央に対し、刃傷に及んだ。この事件が発端となって、世に残る元禄赤穂事件、のちに言う忠臣蔵の討ち入りが起こる。
浅野が吉良に斬りつけたのは、指南役である吉良が、勅使饗応(京から江戸へ下向した朝廷からの使者に対する、江戸滞在中の接待)にさいして、浅野にウソを教えるなどの嫌がらせを続けたためだと言われている。しかも、意地悪の理由は、浅野が吉良に贈った指南料が少な過ぎたからとする巷説が残る。
だが、この吉良上野介義央という人物、地元の愛知県幡豆郡吉良町では、とても良い殿様だったと評判なのだ。領内を親しく巡察して気軽に領民に声をかけたり、堤防を造って水害を防いだり、新田や塩田開発を展開したりして、郷土に貢献した名君とされている。
そんな吉良を希代の悪党に仕立て上げたのも、『仮名手本忠臣蔵』の創作である。吉良が良い人だったら、芝居がしらけてしまうからだ。
でも、本当は吉良が善人、浅野が悪人だったら、逆に面白い設定ができそうな気がする。
それはそれとして、一つ不思議なことがある。浅野家が5万石を超える大名なのに対して、吉良家はその10分の1の石高しか持たず、いわゆる大名ではなかった。にもかかわらず、官位(朝廷から与えられる位)は吉良家のほうがずっと高く、吉良が浅野より威張っていたという点だ。
それは、吉良家が「高家肝煎」だったからである。
高家というのは、簡単に言ってしまえば、幕府に取り立てられた名族の生き残りである。「公家」から来た名称とも言われている。たとえば吉良家は、足利将軍家の血脈を受け継ぐ名家だった。幕府は、こうした名族たちに扶持を与え、世襲のもと、儀式典礼を司らせたのである。
高家は徐々に増え、幕末までに200家近くを数えるようになるが、吉良家が高家になったのは1615年、2代将軍・秀忠の時代に登用された最初の三家(石橋・吉良・品川)のうちの一つであり、もっとも早かった。
高家肝煎とは、高家筆頭の地位にあり、勅使饗応のほか、将軍の代わりに日光東照宮へ参ったり、朝廷へ使いに行ったりした。通常、2~3名が選任され、月番で勤めている。
とくに、将軍家の代理として朝廷と接触する機会が多かったので、官位を高くする必要があった。したがって、石高は数千石しかないにもかかわらず、その地位は20万石クラスの大名に匹敵したというわけだ。
ほかの大名も道で高家肝煎に出会うと、わざわざ下馬して挨拶しなくてはならなかった。つまり、それほど偉かったのである。忠臣蔵の芝居で吉良が浅野に「この田舎侍が!」とののしるシーンがあるが、これも高家肝煎のプライドが言わせた台詞と考えれば納得がいくだろう。
吉良は浅野に額と背中を斬られたが、周囲の者があわてて浅野を止めたので、何とか殺されずにすんだ。
その日は、5代将軍・綱吉と、朝廷より正一位の官位を賜った綱吉の母・桂昌院が、勅使に対して奉答するという大切な儀式が予定されていた。それを台無しにされた綱吉は激怒し、浅野に即日切腹、御家断絶を申し渡した。
しかし、吉良に対しては一切お構いなしとされ、この処分に不満を持った浅野の家臣たちが、のちに仇討ちへと動き出すことになるのである。
【出典】![]() |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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日本史の雑学事典

- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137