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荒木村重の謀反④【あらきむらしげのむほん】
- 7 荒木村重の謀反④…六条河原・車裂の刑と荒木村重のその後
信長はさらに、荒木一族を京都で処刑するように命じた。その日の夜のうち、村重の妻・たしをはじめとする荒木一族36人は城から引き立てられ、夜通し歩かされて京へ入り、妙顕寺という寺院に設置された牢屋へぶち込まれた。
信長は処刑を見物するために、同じく京都の妙覚寺に入り、妙顕寺に捕らえておいた荒木一族の処刑を執行すると宣言した。
これを知った荒木一族は、寺の僧侶に布施を渡して戒名をつけてもらい、経帷子(死装束)や数珠などを用意した。さらに、親族への遺書、知人に宛てた別れの書簡を書き、辞世の句を認めて、心の準備を整えた。
1579年12月16日の午前8時、迎えの車11台が妙顕寺に到着した。1台に数名ずつ分乗して、荒木一族は寺をあとにした。このなかには、荒木村重の娘で身重の15歳の少女や、8歳や13歳といった子供のいたいけな姿もあった。
数百名の織田方の鎧武者が、抜き身の槍や長刀を握り、車の前後に従った。荒木一族は、上京一条の辻から室町通りに至る街中をゆっくり車で引き廻され、刑場となる六条河原へと向かった。
京都じゅうにはすでに町触が出されていて、沿道は野次馬の町人で溢れんばかりだった。荒木一族は、大勢の好奇な目にさらされる恥辱を受けることになったが、さすがは武士の一族、多くは取り乱す様子もなく、凛とした態度を保っていた。とくに、ひときわ目を引いたのが、村重の妻・たしであった。彼女は『今楊貴妃』と呼ばれたほどの美女であったが、最期のときも恐怖の色一つ見せず、車から降りるさいにはしっかり帯を締め直して髪も結い直し、服の襟を引いて首を見せ、見事に首を討たれたのである。荒木久左衛門の息子で14歳の自念、伊丹安大夫の8歳の息子は、
「最期のところはここですか」
といって静かに座り、首を差し出したという。こういった荒木一門の態度に、見物人はしきりに感嘆の声を漏らしたのだった。
だが、一族の乳母や召使いのような身分低き人々は、人目もはばからずに悶え嘆き、まことにみじめであった。
信長は、さすがに荒木一族には敬意を払って斬首に処したが、身分低き者たちへの処刑については、かなり残酷なことをして楽しんだ形跡が見られる。数名に「車裂の刑」を執行したのだ。
車裂は古代の中国でよくおこなわれた刑で、2台の馬車にロープで片足・片手をそれぞれ固定し、馬車を反対方向へ思いっきり走らせて、人体を引き裂いて殺すという、むごたらしい処刑である。
信長は、このような残酷な処刑方法が大好きだったらしい。股が裂けて内臓が飛び出し、手足がバラバラになった痛ましい遺体は、おそらく信長の異常な性癖を満足させたにちがいない。
さて、荒木村重のその後はどうなったのか?
彼は結局、信長には討たれなかった。尼崎城から花隈城へと逃れ、さらに同城陥落の混乱にまぎれ、まんまと毛利氏の領国である尾道へ入り、そこで本能寺の変を迎える。
そのまま世に出ず、尾道で逼塞していればまだしも、豊臣秀吉が台頭してくると、何と、おめおめとかつての同朋・秀吉のお伽衆となって、微々たる禄を与えられて喜んでいる。
村重は剃髪して「道薫」と名乗ったが、一説によると「道糞」とも伝えられている。確かに、道端に落ちている糞以下の人間だ。これでは、惨殺されていった多数の一族や家臣たちは、いつまでたっても浮かばれないだろう。
【出典】![]() |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137