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今日のこよみ ・2019年(平成31年/猪)
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月名(旧歴日):下弦の月/下つ弓張(しもつゆみはり)
- 年号【ねんごう】
- ◆平成への改元は元号法の初の適用
一九八九年一月七日、昭和天皇の崩御と新天皇の即位にともない、六四年間続いた昭和にかわる新たな年号(元号)が公表された。「平成」と墨書した額をテレビカメラの前に掲げたのは、時の官房長官・小渕恵三であった。
明治以前は一代の天皇が何度も改元することが多かったが、明治の改元にあたっては、「一世一元」の制が定められ、以後、大正、昭和と続いた。しかし、戦後、新たに制定された皇室典範(皇位継承はじめ皇室に関係する事項を規定する法律)においては年号に関する規定がないため、一九七九年に元号法が制定された。昭和から平成への改元は、この元号法の初の適用である。
明治の改元にあたっては、儒官が提出した複数の元号案を天皇が神前において籖を引いて選定したという。
では、平成という年号は、いつ誰によって考案され選定されたのか。政府発表によれば、考案者選びは元号法成立の直後から内閣官房が文部省の協力を受けて進め、国文学、漢学、東洋史などを専門とする文化勲章受章者、文化功労者、学士院会員などから五人前後が考案者として選ばれていたという。
政府は平成という年号の考案者の氏名を公表していないが、九〇年一月、竹下登元首相は陽明学者・安岡正篤(一九八三年死去)がその一人であったことを明らかにした。「安岡氏は戦前、東洋哲学を独学で修め、二〇代前半から陽明学者として活躍。終戦の『玉音放送』の原案に朱を入れたほか、戦後は歴代首相から『師』と仰がれ」た人物である(朝日新聞より)。生前、「内平かに外成る」という『史記』の文言を周囲に示していたので、平成という年号は彼の発案によるものとみられている。
◆昔の改元は元日にまでさかのぼって適用された
元号法に基づき昭和六四年は一月七日までで、平成は翌一月八日から始まった。大正への改元にあたっては、新天皇の即位(践祚)の日をもって新年号をたてることが定められ、元号法もこれを踏襲している。このため、明治四五年は七月二九日までで、大正は翌七月三〇日から始まった。同様に大正一五年は一二月二四日までで、昭和は翌一二月二五日から始まった。昭和元年生まれの人が少ないのはこのためだ。
しかし、明治以前は新年号はその年の元日にまでさかのぼって適用されるのを通例とした。したがって、たとえば明治への改元によって、慶応四年(一八六八年)九月八日(旧暦)は明治元年九月八日となったが、明治元年はこの年の元日から適用されるため、慶応四年というのはなくなってしまうのである。だからといって、歴史小説などで「年が明けて明治となった」などと書くと誤りとなる。
年号はどのように決められるのか
【出典】 |
日本実業出版社(著:吉岡 安之) 「 暦の雑学事典 」 |
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暦の雑学事典について | ||
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この言葉が収録されている辞典 |
暦の雑学事典
- 【辞書・辞典名】暦の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】吉岡 安之
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】198
- 【発売日】1999年12月
- 【ISBN】978-4534030214