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御救仕組【おすくいしくみ】
- 14 抵抗勢力に内緒で突如断行された「御救仕組」…斬新でユニークな藩政改革もわずか2年で挫折
第10代福岡藩主・黒田斉清は、1833年、引退を家中へ表明するとともに、藩政改革宣言をした。父・斉隆の早世により1歳で藩主になったため、藩の実権は重臣層が握り、半世紀近い治世で自ら政務を取ることがほとんどなかった。せめて次代・長溥に家督を譲る前に改革を実行し、逼迫した財政や領民の困窮を和らげ、円満な政権交代を企図したのだ。
重臣たちの反対は目に見えていたので、改革計画は家老・久野外記とだけ相談して立てられた。改革に当たっては白水養禎の「存寄書」が参考にされた。白水は城下の眼医者だったが、藩の困窮に心を痛め、自分の思うところを同書に書き留め、藩庁へ提出した。これが斉清の目に止まったのだ。
同年12月、久野外記を「御家中并郡町浦御救一件引切請持」という改革の最高責任者に任じ、白水養禎と大坂蔵元奉行の花房伝左衛門を御救奉行に抜擢、「御救仕組」と呼ばれる藩政改革が実行に移される。藩家老は久野のほかに6名いたが、誰1人として事前に知らされていた者はおらず、世子・長溥も同様だった。御救仕組は、まさに青天の霹靂で始まったのである。
改革は、銀札(藩札)を発行し、それを人々に貸し与えて借金を返済させるという救済措置を中心に進められた。銀1貫分の銀札は米7俵と引き換えと決められた。福岡藩は以前にも同様な政策をおこなっている。今回の特徴は、家中にしか認めていなかったこの制度を、農民や町人層にまで広げたことだ。発行量も、前回の5倍以上だった。
人々は争って銀札を求めた。町人は高利貸からの借金をこれで支払い、貧農は質地を銀札で取り返した。大量発行で銀札の価値は下落、銀札を受け取った商人や地主は大損をすることになった。
改革者たちは、さらに、とてもユニークな政策を試みている。「以来は兎に角、諸事華美に致し、常芝居など取り始め、あるいは芸子など追々入り込み候儀を差し許し、専ら賑わい候様これ有り度、左様候得ば、自然と旅人なども入れ込み多く相成り、御国繁栄に基き候」(『石見屋日記』)と、積極的に城下の殷賑繁栄策をとったのだ。領民に華美を奨励し、夜店や貸馬、遊覧舟などを許し、さらに藩主催による芝居・歌舞伎・相撲・富籤を盛んに実施した。領民だけでなく、進んで観光客や旅人なども城下に招いたのである。銀札流通の活発化とその回収、そして、興行による藩庫の増収が狙いだった。博多中洲の一帯が歓楽街として賑わうようになったのはこの頃からと言われている。
さらに、銀札の回収をもっと促進するため、斉清は豪商や豪農などに銀の上納を命じ、見返りとして巨額上納者には苗字帯刀を許し、扶持米さえ与えるという思い切った政策を打ち出した。つまり、身分制度をぶち壊したのだ。その結果、銀札は発行高の半分が回収された。また、大坂の豪商・鴻池屋と加島屋の巨額な藩債を据え置きという形で凍結し、返済に当てていた年貢米を販売に回して藩収を上げようとした。
このような諸政策で藩庫には余裕ができるはずだったが、1834年の藩主交代による出費、11万両と言われる新藩主・長溥の昇進運動費、斉清の隠居料と隠居屋敷の建設代金などが重くのしかかり、結局、藩の財政は好転しなかった。
そのため、家中の同意を得ない強引な改革への不満、損失を受けた地主や豪商の怒りが次第に大きくなっていった。ついに、1836年6月に発生した領内の大洪水が引き金となって、改革派は失政を問われ、久野外記は辞任に追い込まれた。斬新な改革は、残念ながら2年余りで挫折してしまったのである。
【出典】![]() |
日本実業出版(著:河合敦) 「 日本史の雑学事典 」 |
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- 【辞書・辞典名】日本史の雑学事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】河合敦
- 【書籍版の価格】1,404
- 【収録語数】136
- 【発売日】2002年6月
- 【ISBN】978-4534034137