-
今日のこよみ ・2019年(平成31年/猪)
・12月(師走/December)
・19日
・木(Thursday)
・二十四節気
┣「大雪」から12日
┗「冬至」まで3日
・先負
・十支:庚(かのえ)
・十二支:寅(とら)
月名(旧歴日):下弦の月/下つ弓張(しもつゆみはり)
五街道【ごかいどう】
- 戦国時代は、道路にとっても苦難の時代といえた。道路は荒れ果て、治安も乱れ、庶民が安心して通れる状態ではなかったという。織田信長は諸国を統一し、道路の大改修を行った。その後を継いだ豊臣秀吉も、道路整備に大きな功績を残している。しかし、本格的に道路が整備され始めたのは江戸時代に入ってからである。
関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、まず道路の大改革に乗り出した。政治支配を強め、より強固で安定した幕府を築くためには、何よりも先に道路の整備が必要だと考えたのだろう。一六〇一(慶長六)年、家康は朱印状によって各宿場に伝馬(駅馬とは別に公用に使わせた馬)の常備を義務づけ、道幅を広げ、宿場を整備し、一里塚を設けるなど、街道の整備を着々と進めた。砂利や砂を敷いて路面を平らに固めたり、松並木を植えたりもした。
だが、江戸時代の五街道は家康が定めたものではなく、三代将軍の家光でもなかった。四代将軍家綱の時代に定められたのである。江戸日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五本の幹線道を五街道といい、街道の要所要所に関所を置いて、通行人を取り締った。江戸の防衛、ひいては幕府安泰のためである。
東海道は江戸日本橋から京都三条大橋までの五三次、約四九〇km、大坂までの四宿も加えて五七次ともいった。中山道は高崎、下諏訪、木曽路を経て、草津までの六七次、それに草津、大津の二宿を加えて六九次といった。日光街道は千住、宇都宮、今市を経て日光までの二一次。奥州街道は陸奥白河までの二七次で、宇都宮までの一七宿は日光街道と重複していた。甲州街道は内藤新宿、八王子、甲府を通り、下諏訪で中山道に合流するまでの四三次だ。
東海道は天下の大動脈として、幕府が最も重要視した幹線道で、とりわけ取締りも厳しかった。「入鉄砲出女」には特に目を光らせた。入鉄砲、すなわち江戸に武器が入ってくることの取締りだ。出女は諸大名の妻子たちの、江戸からの脱出を監視することである。
そもそも徳川幕府が参勤交代の制度をとったのも、諸国の統制と国家の安泰が最大の目的であった。参勤交代とは諸国の大名を一年江戸に参勤させ、次の一年を在国させるというもので、大名の妻子たちは人質として江戸に常住させられた。徳川幕府が三〇〇年近くも続いたのは、参勤交代の制度があったからだといわれている。
参勤交代は宿場をはじめ、街道筋を発展させるという大きな経済効果をもたらした。五街道およびそれに付属する脇街道は、参勤交代など公用目的に整備されたものだが、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになり、街道筋はますます栄えた。
誰が定めた?江戸時代の五街道
【出典】![]() |
日本実業出版社(著:浅井 建爾) 「 道と路がわかる事典 」 |
A D |
道と路がわかる事典について | ||
|
この言葉が収録されている辞典 |
道と路がわかる事典

- 【辞書・辞典名】道と路がわかる事典[link]
- 【出版社】日本実業出版社
- 【編集委員】浅井 建爾
- 【書籍版の価格】1,620
- 【収録語数】255
- 【発売日】2001年11月
- 【ISBN】978-4534033154